DATE: 2016/08/25(木)   CATEGORY: 漢字の歴史
2.漢字を発展させた歴史上の人物
2-1:漢字の生みの親の伝説
◆漢字の始まり伝説にあるなかで、有名なのが、蒼頡(そうけつ)。伝説の5帝のひとり・黄帝(道教の祖といわれる)に仕えていた文書担当の役人。
鳥や獣の足跡を見て表現した。
2-2:漢字の簡略化を図った始皇帝
◆皇帝に権力を集中し、中央集権体制を強化するためには、文書での統治機構の管理が不可欠になってきた。文字を構成する要素の位置がきちんと決められた。
小篆(しょうてん)。
◆篆書が正式文書に使われた。(=現在、印鑑の文字として使われている。)
◆その後、隷書そして楷書へと簡略されていく。
2-3:王の証として字を“変形”則天武后
◆長い中国の歴史の中でも、唯一女帝の則天武后(624~705)。周を開いた。夫、唐第3代皇帝高宗の死後、強大な力を持ち新しい文字まで作った。文字は、王だけが使うことを許されていた神聖で、王朝を開いたことを示した=「則天文字」。
死後使われなくなった。17文字とも18文字とも言われている。
遣唐使船で日本にも伝わってきた。*水戸光圀(=圀)
2-4:”完璧“な字典を作り上げた康熙帝
◆清朝第4代皇帝・康熙帝(在位1662~1722)は名君の誉れ高く、在位60年位及んだ皇帝として名が知られている。乾隆帝とともに、清朝が最も栄えた時代で、後に「康熙・乾隆盛世(せいせい)」と称された。漢和辞典の元祖「康熙字典」をまとめた。4万9千字。
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DATE: 2016/08/11(木)   CATEGORY: 漢字の歴史
1、漢字の歴史的変遷
1-1、中国最古の文字は「占い」から。
◆紀元前16世紀~11世紀の殷の時代では、政(まつりごと)は占いによって行われ亀の甲羅や獣の骨に火箸を刺し割れ目の形で吉凶を占った。
◆割れ目が「卜」の形に似ていたので占いを意味する文字となり、割れるときの音が「ボク」の音になった。=「亀甲文字」。
1-2、金属器に刻まれた「金文」の発展
◆殷中期に青銅器に記された文字が出現する。「金文(きんぶん)」で、秦の時代に印鑑などに使われる装飾的字体「篆書(てんしょ)」が現われるまで多く見られる。
◆この時代は、天下統一されていないこともあり、各地方で字体は異なっていた。
1-3、秦の始皇帝:文字統一と書道誕生
◆秦の始皇帝が、紀元前221年位天下統一を果たしたことで、「篆書」に統一された。中央集権化を図る一環として字を統一した。簡単に書けるように改良を加えたのが、漢時代の「隷書」。
◆しかし、後漢末になると、直線的な字体の「楷書」が生まれた。さらに「隷書」を崩して「草書」を作った。草書は楷書よりも500年前に出来上がっている。
◆その後、「楷書」を簡略した「行書」も作られ,美しく書く「書道」が生まれた。
1-4、漢字:基本6パターン=「六書」
◆現存する最古の字書:許慎(きょしん)「説文解字(せつもんかいじ)」に解説。
・(1)象形文字:モノの形を簡略化したもの。 *「目」「手」「門」「交」など
・(2)指事文字:数字(一、二、三・・・)や「上」「下」など、指し示す文字
・(3)会意文字:象形文字や指事文字を組み合わせた、「森」「林」「炎」など
・(4)形声文字:「音」を表わす文字と「意味」を表わす文字を組み合わせた。
     *「汗(かん)」「沈(ちん)」「泳(えい)」などが出来あがる。
・(5)転注文字:元々の意味が転じて別の意味を表わす。
    *「好(よい)」→「好(このむ)」
・(6)仮借文字:文字の意味は無視して、音だけを借用したもの。
    *「我」元々、鋭い刃のついた「ほこ」を表わしていたが、「ガ」の音から、
     一人称を表わす文字となった。

12-2:社会集団・社会関係と名前
12-2-1:女性当主と名前
◆近世には武士は主君に奉公しなくてはいけなかったため、女性が家督を相続することは否定されていた。
◆一方、百姓・町人の家は領主にとっては財政基盤であるので、当主死亡時に男子がいないか幼少の場合は、養子を迎えるか実男子が成人するまでの間、後家や娘が中継ぎとして当主になることは認められていた。
◆近世には、一組の夫婦と子供二人前後の小家族によって構成される家が一般化したので、女性当主は珍しくなかった。
◆宗門人別改帳には、「百姓某後家(娘)○○」と、領主との関係においては、男性が家代表者であるという体裁をとっていた。
◆18世紀後半以降、中継ぎ相続にとどまらない事例も出現。男性優位で相続していては、もはや家産を維持するのが困難な事態もあり性別にかかわらず能力を重視して相続人を選定する傾向が出てきた。
12-2-2:名前の使い分け
◆近世の身分制は職業(職能)別に編成されており、身分と職分が一体化しているのが基本であったが、社会的奉行の進展により両者が分離する事態も現われた。百姓や町人が武士身分に取立てられた例は無数にあり、後期には領主への献金によって武士身分を獲得するものが増加した。=「壱人両名」
◆同一人物が名前を使い分けることは、異なる社会関係に身を置くことになった場合で、別個の名前で、別人格として社会関係を取り結んでいた。
12-2-3:「号」で結ぶ文人の人間関係
◆学問、文芸、芸術などの活動は「号」で行われた。
◆泰平の世が長く続き、庶民の間にも文字文化が浸透した江戸時代には、武士や庶民も学問・文芸・芸術活動を盛んに行っていた。
◆近世後期には、多様な文化活動を通じてさまざまな身分・職能団体とは原理を異にする、任意的結合体としての文化結社を生み出していった。そこでの交遊は世俗の身分名ではなく「文人としての号」でなされた。「号」は管理されていないので、「号」で行う活動とそれで結ぶ人間関係は、権力の身分統制の枠外にあった。
◆近世も後期になると、身分制社会にあって、多様な公共空間が広く成立していた。それが、身分制を内から克服する大きな契機となった。
◆俳諧・漢詩・若・謡曲・長唄・浄瑠璃・書画・囲碁・生け花・料理・弓術など多様な嗜みが村人の間に受容されており、近世後期には種々の芸を集団で楽しむ一大イベントが催されており、それを中老衆、若者仲間という村落の年齢集団も支えていた。
◆村落社会にも個人の獣医師で取り結ぶ結社的人間関係を胚胎させていた。
12-2-4:行者名で結ぶ人間関係
◆近世にはさまざまな民衆宗教が生まれたが、一つに富士講があった。富士講には広範囲にわたって多くの農民や商人たちが入信し、仲間を形成した。そのネットワークは、関東から東海・甲信・畿内にまで及んでいる。彼らは行者名で交遊した。身分、職業、支配領域を超え、同じ道を実践する公共圏の形成である。実際にも彼らは「土持」と称する土木工事の無償労働奉仕のような社会奉仕事業を盛んに行い、二宮尊徳が考案した報徳仕法が、福島県から滋賀県に及ぶ広範な」地域で実践されたが、その展開を支えた社会基盤となっていたのも富士講仲間であった。

●今回で、「日本人の姓名の変遷」を終了します。次回からは、「漢字の変遷」について書いていきます。
12-1:近世の国家・社会・民族:名前の規制:その3
12-1-11:名前の重複と共同体
◆当主は村の共同体で重複を規制していたが、以外は規制していなかったので重複もあった。
◆村レベルでは当主の名前を付して「誰々の所の誰々」「何々屋敷の誰々」としたので、村内で同名の者がいても差し支えなかった。
◆奉公人も「何々村百姓下人誰々」と主人との主従関係でそれぞれ把握していた。
12-1-12:武家の家内秩序と男性の呼称
◆徳川将軍家では、西ノ丸に入った世子は「若君様」、天皇から任官叙位されると「官職名+殿」、家督を継いで本丸に入ると「上様」、将軍職に就くと「公方様」、将軍職を退き西ノ丸に入ると「大御所様」と呼ばれた。
◆幕藩体制が確立していなかった江戸初期には、大名には相続人選定にあたっても「器量」の原理を優先させていた。
◆17世紀中期になると「器量」の原理は否定され、家筋優先の原則を打ち出すが、嫡子男子相続は確立しなかった。
◆幕藩体制が盤石となった1680年に将軍となり、30年近くその職にあった綱吉は身分秩序の強化によって政治・社会秩序の維持を図り、家内秩序も長幼の序によって律しようとした。
◆大名家では、当主「殿様:屋形様=幕府から屋形号を認められた大名」、隠居「大殿様:大屋形様」、世子「若殿様:御曹司様」・旗本家では、「殿様」「若様」
12-1-13:武家の家内秩序と女性の呼称
◆徳川将軍家では、世子の正室「御簾中様」、夫が将軍に就くと「御台所様」、大御所になると「大御台所様」に変更された。
◆伊達家では、当主の正室は「奥様」、当主が「屋形様」と呼ばれると「御前様」。
◆一般の大名・旗本は正室は「奥様」、嫡子正室は「若奥様」、御家人の呼称は「檀那様」、妻は「御新造様」
12-1-14:庶民の相続慣行と跡継の呼称
◆「惣領」「跡取り」「跡継」「家督」「本家取り」、次男以下は「オジ」「オンチャ」「オジコ」「舎弟」など。
12-1-15:書状本文中での相手の指称
◆書状の本文中においては相手の名を記すことは憚られたので、二人称で指称し、発信者と受信者の身分関係によって使い分けていた。
◆支配頭以上に対しては「御自分様」、諸士「其元様」「各様」、同輩には「其元」「貴様」「貴殿」下輩には「御自分」、諸士に私的な用件で出す書状の場合は、御用状より丁重な「貴台様」を用いた。
◆これらは対面した時の呼称でもあり、自分と相手の身分関係によって、相手に対する呼称を使い分けなければならなかった。
12-1:近世の国家・社会・民族:名前の規制:その2
12-1-4:神職の官職名
◆近世においては、朝廷との間を取り次ぐ伝奏の公家が決まっている大社の神職は、その執奏によって官位を得ていたが、中小神社の神職は、唯一神道宗家で神祇管領長上を称した吉田家や、神祇伯の白川家から神道裁許状を受けて初めて、正式の官職名を名乗れた。
12-1-5:職人の官職名
◆近世の職人は天皇の勅許によって官位叙勲されるか、勧修寺、仁和寺、大覚寺の三門跡(皇族・貴族が出家して入室している寺院)から宣旨を得れば、公式に官職名を名乗ることが出来た。これらは職人受領と呼ばれる。
◆職人たちの間では、官位制度の原則から一代限りのものであった先祖の勅許官職名を私的に世襲した。江戸幕府は規制をしたが、効果は限定された。それが、ステータスシンボルになり、家業を利したからである。
◆1814年に全国に振れを出し徹底させたが、受領は与える側も礼金を得る収入源だったため、朝廷、公家、問跡の間に確執も生じさせた。神職も吉田家と白川家と熾烈な争奪戦を繰り広げている。
12-1-6:武家の官位剥奪の意味
◆泰平の世となった近世には、武功による立身出世の道は閉ざされ、家格と官位を高めることを大名たちは競うようになった。江戸城での儀礼の席順もあり、老中や側近、大奥などに賄賂を贈って内々に働きかける風潮を生んだ。(11代家斉の時代に激しくなっている。)
◆戦で領土を拡大し、恩賞として与えることはできなくなる。官位の授与権を将軍が実質的に握り、大名の忠誠心を引き出すシステムとして武家官位性を機能させえた。しかし、天皇とも君臣関係を結んでいたことは、外圧の中で尊王思想が高まり、天皇の勅命が政治的な重みを持つようになった幕末には、天皇への忠誠から将軍に反逆する契機ともなった。
◆毛利慶親→敬親(元の実名):と、定弘→広封(元の実名):は、「禁門の変」で官位をはく奪され、政治活動を禁じられた。1867年「倒幕の密勅」を受け入京を許された。毛利敬親の墓標には、「贈従1位大江朝臣敬親卿墓」と刻まれている。「大江」は毛利氏の「姓」であり天皇との関係は「姓」で結ばれる。
12-1-7:偏諱の賜与
◆偏諱(へんき)の賜与とは、上位者が下位者へ諱=実名二字のうち一字(片名)を与えること。家臣にとっては、主君の苗字や偏諱を賜ることは、自身や自家の格式を高める名誉なことであった。
◆五代将軍綱吉の側近、柳沢吉保は、「松平」の苗字と綱吉偏諱の「吉」を与えられ、実名を「保明」から「吉保」に改めている。
12-1-8:禁字
◆主君と同じ実名や同じ字を名前に使用することを憚った。
◆禁字を、天皇・将軍・藩主及びその家族・先祖の名前や名前の一部の文字、あるいは読みを指定して名前に使用することを禁じた。
◆禁字は、701年完成の大宝律令ににみえ、皇祖以下の御名が規定されている。
◆近世中・後期にはには藩主としての権威を高めるために、藩主以外の家成員の名前も対象とされた。そこには嫡系中心という家の原理が貫かれていた。正室と側室の扱いの差異も厳然としている。
12-1-9:身分・格式と職階による名前規則
◆18世紀前半にかけて身分・格式や職階によっても規制された。藩主・上司などの名前は敬親すべきものとなり、村役人や町役人にも適用された。
◆大名であっても、自身が名乗っている官職名と同じ名前の者が幕府の要職に就くと、別の官職名に変えなければならなかった。
◆上位者に提出する文書の宛名や上位者が出す文書の差出人名は無苗字とするのが礼式であったので、上下関係にあるものが同名では差し支えたのである。
◆仙台藩では「陸奥守」を通称をしていたので“魚のむつ”を「六ノ魚」と呼んでいた。
12-1-10:共同体の名前規制
◆それぞれの村社会には独自の身分階層が存在し、それは家格という形を取り、それによって村の秩序が規律されていた。家格は、村内で苗字を名乗れる資格、氏神=鎮守の祭祀組織への加入資格、衣服、家屋の造り、門構え、当主の名前、戒名の格、墓標の形態や大きさなど、様々な指標によって表示されていた。
◆商品貨幣経済の進展した18世紀半ば以降、家格が低くても経済的に上昇した百姓は、旧来の家格秩序を乱す行為をして全国各地の村で紛争が頻発している。
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